永井英慈先生を偲ぶ


 
 親しい人は気づいたかもしれないが、私は「神戸市」と言うところを、間違えて「川崎市」と言ってしまうことがままある。私の生まれは名古屋市で、大学時代は横浜市に住み、社会人になってからは東京に住んでいたのだが、政治の修行が始まったのは、大学生時代に川崎市の衆議院議員・永井英慈先生の事務所で、アルバイトをしたことだ。
 
 1999年、大学2年生の時に神奈川県知事選の公開討論会を主催し、そのご縁で「実際の政治の現場も学んだ方が良い」と紹介してくれる人がいた。折しも2000年の総選挙が間近で、パソコンを使える若いスタッフを永井事務所も求めていた。
 
 永井英慈先生は慶應義塾大学法学部政治学科卒で、私と学部学科まで一緒の母校の大先輩だった。当時事務所にはWindows98のパソコンが何台かあったが、誰も使える人がおらず、私が事務所で働き出したら随分重宝してくれたのを覚えている。特に選挙ハガキや集会の郵送物を、それまで手書きで書いていたのをラベルで一瞬で印刷し終えたので、目を丸くされ、選挙が終わった後も事務所で手伝って欲しいと言われたので、そのまま週に3〜4日ほど、大学の講義が終わると永井事務所に通う日々だった。
 

 

 
 永井英慈先生は赤城山の農家に生まれ、幼いころから農作業の重労働の日々を送られた、立志伝中の方だった。余りにも過酷な重労働で、夕飯を食べている最中、丼に顔を突っ込んで寝てしまったことも幾度かあったという。「スーパーナガイ」を兄弟と共に創業し(現「フレスコベンガベンガ」)、店舗を増やしてビジネスで成功した後、斎藤文夫・参議院議員の下で政治の修行をし、自民党から県議に当選。その後、河野洋平氏の新自由クラブに参加し、同クラブ解散後も自民党には戻らず、民主党の立ち上げに参画し、衆議院議員になられ、民主党神奈川県連の会長を長く務めた。
 
 永井英慈先生は私を猫可愛がりして下さり、他の秘書が妬むほどだった。思えば末松信介先生も私のことを大変可愛がって下さったが、私は良い政治家に出会う幸運を持っていた。私費でドイツとフランスに旅行に行った際も、身の回りの面倒を見るという名目で、私も連れて行ってくれた。永井先生と2人で、ノイシュヴァンシュタイン城や独連邦議会、ルーブル美術館、ノートルダム大聖堂など、様々なところを訪れた。一生の思い出だ。
 

 

 
 政策秘書の資格を取り、大学院の2年生になった時、「正式に公設秘書として務めて欲しい」と言って下さった。しかし、既に永井先生は次の選挙には出ずに引退を決めていたことと、折角ならば政策秘書として務めたいという気持ちもあり、自民党の森元恒雄先生の下で政策秘書になる道を選んだ。その旨を、当時政策秘書だった市川浩三さんと2人で伝えに行った際、永井先生は「そうか、正直悲しい」と言って下を向いてしまわれたのを覚えている。私もその場で泣き出してしまった。それぐらい可愛がって下さっていたので、申し訳ない気持ちだった。
 
 その後も永井先生との関係は続き、彼が議員引退後、生田緑地の再生を求める活動を開始した折には、ホームページを作成し、彼の著作の執筆も手伝った。2005年、私が自民党公認で衆院選に立候補した際には、何度も愛知まで激励に来て下さった。私の結婚に際しては仲人になって下さり、2013年の川崎市長選挙の折には、「若い君が名乗りを上げるべきだ」と、田中和徳代議士や塩崎恭久代議士を説得して出馬を促して下さった(結局実現しなかったが)。
 
 その後は、パソコンの買い替えや修理なども兼ねて、時折お家にお邪魔していたが、奥様が体調を崩されてから、永井先生の活動範囲も狭まり、あまり会うこともなくなってしまった。神戸市議に初当選した折にはお手紙を下さったが、それ以後の交流はなく、2021年春、家族葬を終えたという訃報を市川さんから伺った。
 
 人の情をしみじみと感じ、朗らかに癒す、情と知性を兼ね備えた大政治家だった。他の秘書にとっては怖い存在だったようだが、私にとっては本当に優しい、母校の尊敬すべき大先輩だった。
 
 永井英慈先生、本当にありがとうございました。